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2021年03月21日

インタビュー:還暦を迎えたローター・マテウス、そのキャリアを振り返る

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 本日日曜日に還暦を迎えたローター・マテウス氏が、kickerとのインタビューの中で、そのキャリアについて改めて振り返った。

子供時代のことは、どれほどの頻度で振り返られるものですか?

しょっちゅうだね。両親はもういないのだが、定期的にヘルツォーゲンアウラッハにいくから。1.FCヘルツォーゲンアウラッハとは非常に良好な関係にあり、私は名誉キャプテンになっていて、ピッチには私の名前をつけてもらっている。ユースの活動をサポートしており、当時の選手は2人しか接点はないものの、それでも40年来のつきあいだ。素晴らしい記憶がたくさんあるよ。

ヘルツォーゲンアウラッハはスポーツ用品メイカー、PUMA社の本社があるところであり、ご自身とは切っても切り離せない関係にあります。

びっくりするくらいにね。あそこの管理人を務めていたのが父だった。そしてその息子である私は、プーマのクラブであるボルシア・メンヒェングラードバッハに入団することになる。それもまた、今もつながり続けている理由の1つだよね。

どのような子供時代、青春時代を過ごされていましたか?

あの頃はバスケットコートやテニスコート、ましてSNSのネタ作りなんてものはなかったからね。それに両親には毎日のようにおもちゃを買ってもらえるほどの、経済的余裕があったわけでもなかった。私のおもちゃはサッカーボール。宿題が終わると私は外に出て、通りにいた男の子たちと遊んでいたよ。暗くなるまで。誰もいないときは、壁をつかってインステップ、アウトステップ、左、右と、練習をしていたものさ。

クラブでプレーを始めた時期は?

私は9歳の時には、まだF、E、Dユースのようなものはなく、私はCユースでトレーニングを受けて、10歳からプレーすることを許された。そこでは主に14歳を相手にプレーしており、その中で私は最年少だったよ。常にセンターフォワードとしてプレーし、一番得点を決めていた。それからBユースを飛び越えて、14歳でAユースにはいり4年間過ごす。その最後の17歳の時には、トップチームでも並行してプレーしていた。午前はAユース、午後はトップチームという感じだね。

ご自身が台所にいて、お母さんが代表のユニフォームにアイロンをかけている様子の写真があります。

あれは1980年、ユーロの後の写真だと思う。その家は60年代後半から70年代前半に建てられていたし、当時10歳だった私は、毎週土曜の午前にレンガを運んだり、手伝いをしていた。それは私にも兄弟にとっても、決して悪いことではなかったよ。お金を稼ぐ、ということを早い時期から学ぶことができたんだ。新聞配達、PUMA社のサマーワーク、サッカー場でのドリンク販売。この写真には、いろんなことが詰まっている。非常に真面目だった私の母は、全てをきっちりと整理し、所定の位置へと全てが配置されていた。父は朝になるとPUMA社の扉の鍵を開け、夕方になると施錠していた。私はヴュルツブルガー通り沿いにある、会社の隣に住んでいたんだよ。会社の番地は13、うちは11番だった。

その後のサッカー人生について、自身では予見していたのでしょうか?

そんなことはない。代表選手になれると思って、ボルシア・メンヒェングラードバッハに入団したわけではないんだ。夢はブンデスリーガの舞台に立つということ。テレビでしか知らなかった世界に足を踏み入れ、自分の布団で包まれていたクラブに来れたという感じだったんだ。

今ならば、どのようにキャリアをスタートさせたと思いますか?ユースセンターから?

わからない。グリューンヴァルトでの練習では「体が小さすぎる」と言われていた。だからバイエルンのセレクションでプレーすることはなかったんだよ。

ボルシアの偉大な時代が終わったときに、ボルシアに移籍しましたね。

この年、1979年のUEFAカップで、レッドスターを相手に優勝を飾っている。祈るような気持ちで応援していたクラブへ、その4週間後には一員として加わることができていた。少年時代の夢が叶ったんだ。あまりに緊張して、ロッカールームではジロジロと見回してしまったよ。ピッチ上ではクリスチャン・クーリク、ヴィニー・シェファーやエヴァルド・リーネンたちを相手に、全力でぶつかっていったけどね。

ユップ・ハインケスはあなたにとって、最初のプロでのコーチでした。

彼とベルティ・フォクツ氏のアドバイスを受けて、4日間のトライアル・トレーニングの最初の日に契約を結んだ。ユップがヘルツォーゲンアウラッハに来たのは、その前のこと。午前中ではAユースで2得点、午後はランデスリーガのフォーエンストラウス戦でも2得点を決めてね、それで彼は確信を覚えたのだろう、私をストライカーからボランチに変更してくれた。最初の1・2年はつなぎ役のプレイメイカーとしてプレーしていたよ。

ハインケス監督の後、ラテック氏、ベッケンバウアー氏、トラパットーニ氏、ヒッツフェルト氏らの指導を受けていくことにあります。最も重要な監督は、どの監督になりますか?

私は幸運なことに、適切な時期にクラブを選択することができただけでなく、自分の成熟度の応じた監督と巡り合っていくことができた。ユップの時は、若い選手に依存しているクラブで、若い指揮官と出会えた。彼は私に大きな信頼を寄せてくれ、シェファー、ヴォーラー、ダナーといった名前のある選手をベンチに座らせていたんだ。ユップは鼓舞し、時に檄を飛ばして発奮させてくれたよ。若気の至りで10代の時に馬鹿なことをしでかした時にもね。

それ以外の監督についてはいかがでしょう?

1人に絞ることはできない。ユップは教官、ラテック氏は父親のような存在で、飴と鞭を使い分けていた。私のまわりには素晴らしい監督しか存在していない。トラパットーニ氏はイタリアでの私にとって重要な存在となってくれたし、ベッケンバウアー氏は代表監督として私に自信を与えてくれ、意見に耳を傾けてくれ、起用し続けてくれた。

1984年のバイエルン、そして1988年のインテルへの移籍は、意識的な判断されたものだったのでしょうか?

毎年のようにオファーは届けられ、20歳か21歳の時にはユベントスで、その時の20倍もの収入を手にするチャンスがあった。1984年にバイエルン移籍したのは、お金が決め手ではない。ドイツからは3つのクラブからオファーがあり、グラードバッハからが最も高額で、次にバイエルン、そしてケルンという順番だった。ケルンは追加の用意もあったようだが、しかしその時にはもう自分の気持ちは固まっていたんだ。イタリア挑戦にはまだ成熟していなかったと思う。グラードバッハでは、ドイツ杯決勝でPKを外した時を除いて、5年間に渡って愛してもらっていたよ。


今振り返って、あのオファーを受けていればと思うクラブはありますか?

1991年にレアル・マドリードが私を求めてくれたし、私自身も移籍できればと思っていた。インテルで多くのことを成し遂げており、ジュネーブでレアルのメンドーサ会長と会ったよ。2時間弱で全てがはっきりとした。条件、サラリー、移籍金1800万マルク(当時では破格)を希望しているということ。だがインテルとレアルの間では、イバン・サモラーノを巡る争いが起こっていてね、だからインテルはレアルに放出したがらなかったんだよ。

1984年にFCバイエルンに入団した理由は?

私としてはタイトルを獲得したかった。そしてバイエルンではそれを勝ち取ることができ、3年連続でブンデスリーガを制することもできた。そして代表チームではバイエルンの選手としての立場、グラードバッハの若手選手としての立場に違いがあったしね。1984年以降、私は代表チームでレギュラーを務めることになるのだが、これはユップ・デアヴァル監督からベッケンバウアー監督へと変更したことにも関係している。

あなたの人格に最も影響したのは、インテル・ミラノへの移籍でしたか?

そうだね、当時世界最高のリーグでプレーするという、わくわく感があった。イタリアはサッカー一色で、スタジアムは超満員。ミュンヘンの五輪スタジアムでは、11月に1万2000人の前にプレーしていたが、サンシーロには7万人の観客が毎回押し掛けていた。イタリアのサッカーへの愛、選手へのリスペクト、それは特別なものがあったと思う。私の場合はアピールしていくことが重要であり、アンディ・ブレーメやユルゲン・クリンスマン、ルディ・フェラーやトーマス・ベルトルトのように、私もそれになんとか続くことができたよ。そして何より大きかったのは、1990年のW杯での優勝だけどね。毎週のように最高レベルの選手たちと戦い続ける日々だった。

今もイタリアにホームのような感覚をもっていますか?

もちろんだ、私のニックネームである、「グランデ・ローサー」は心にあり続けている。

どこが特に落ち着きを感じますか?

世界中だね、自分がプレーしたり、指導した場所なら。ただ1つここではっきりとさせておきたいのだが。

どうぞ。

私の指導者としての成功は、選手としての成功には及ばないものだと言われているが、それはそうとも言い切れないものだと思うよ。どこでも悪い仕事はしていないし、失敗もしていない。だからどこにでも気持ちよく戻ることがえきる。私はイスラエルで愛され、今でもウィーン、ザルツブルク、ベオグラードにも顔を出せる。人々からは好意的に思ってもらえているしね。サッカー人として私は、世界中に足跡を残してきた。ドイツ代表、バイエルン、PUMAのアドバイザーなどで、本当に多くの場所を訪れている。アルゼンチンに行くと、マラドーナとの対戦によってリスペクトされているんだ。マラドーナ氏は私について、ポジティブな話しかしていなかったからね

ヘルツォーゲンアウラッハから世界へ

そういったところかな。サッカーは私に、世界を知るための扉を開いてくれた。

ワールドカップ優勝キャプテンという知名度もあるでしょう。

それも悪くはないね。それに見た目が、そんなに変わっていないというのもあるだろうさ。

歓喜から落胆まで、いろいろ味わいました。たとえば1984年のドイツ杯決勝戦…

もしあの時に蹴ることがなかったら、今でもグラードバッハのファンたちから愛してもらえていたのではないかと思う。ユダ呼ばわりされることもなかっただろう。それまではフェンスの上で共にお祝いをしていたんだ。それでもあの経験がプラスにも働いている。あそこから学んだところがあったから、1990年のローマの時に私の脳裏をよぎり、6年前のようなことはしたくはないと強く思った。1984年ではユップが私を指名したのだが、ただ1990年の時はスパイクが新しく、自信をもてなかったのでアンディ・ブレーメに譲った。

責任感ゆえの辞退?

なぜ私が蹴るべきではなかったのか。準々決勝のソ連戦でも、イングランド戦でもPKで得点していたからね、単純に真新しいスパイクだけが気になったんだよ。ドイツ全体の成功を危うくしたくはなかったんだ。1984年の時のように、不安な面持ちで臨みあとで自分を責めるような経験はしたくはない。仮にあれで失敗していれば、自分を今でも責めていたことだろう。あそこで蹴らなかったことは、キャリアの中でも最善の判断だった。

1984年のドイツ杯決勝、そして1999年のチャンピオンズリーグ決勝。再戦できるとしたら、どちらを希望されますか?

どちらの失望も、私は甘んじて受け入れることができる。ただチャンピオンズリーグで優勝をしていないとしても、意外に思われるかもしれないが、子供の頃からの思い入れが強い、メンヒェングラードバッハとのドイツ杯決勝を選択するだろう。このタイトルさえあれば、グラードバッハとの関係が壊れることはなかった、

先日、FCバイエルンのクラブ誌でグリーンキーパーのポーズをとりましたね。あなたにとってバイエルンの意味とは?

合計12年間にわたってプレーしてきた。インテルのタイトルがより感動的なものであったとしても、ファミリーであり、クラブで多くの成功を共に祝ってきた。私にとってバイエルンは、スカイでの仕事や友人、ミュンヘンに住む娘など、多くの接点のある場所だよ。

ヘーネス元会長がかつて、バイエルンでグリーンキーパーさえも決してさせないと述べ、話題になりましたね

ウリはライオンが子供を守るように、身を挺してクラブを守っていたんだ。後に彼からの謝罪を受けている。あの写真はウリの発案で撮影されたものなんだよ。私たちはコロナ危機の中で、笑顔になれるようなものと提供したかった。そういうことは、もうずっと前から我々の間ではできるようになっているよ。

ニューヨークへの旅はいかがでしたか?

思い通りになっていれば、最高の時間になっていただろうがね。


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